ヴィクター・ハッセルブラッド

1906 - 1978

始まり

ハッセルブラッドの物語は、ヴィクター・ハッセルブラッドが誕生する65年前の1841年にさかのぼります。ヴィクターの曽祖父、フリッツ・ヴィクター・ハッセルブラッドは、スウェーデンのヨーテボリに商社F.W. Hasselblad&Coを設立しました。同社は、縫製資材やミシン、旅行用品、家庭用品などの輸入していました。

1885年、フリッツ・ヴィクターの息子、アーヴィッド・ヴィクターは、Eastman Dry Plate&Film Company(後に1888年にコダックとなる会社)の創設者であるジョージ・イーストマンにロンドンでのハネムーン中に出会いました。握手による契約で、F.W. Hasselblad&CoはEastman Dry Plate&Film Companyの写真製品の唯一の販売代理店となりました。

1908年、F.W. Hasselblad & Coは写真事業を切り離し、写真製品の需要を満たすためにHasselblad Fotografiska ABを設立しました。

若きヴィクター

1906年、アーヴィッド・ヴィクターの孫のヴィクター・ハッセルブラッドが、ハッセルブラッド家の写真ビジネスにうってつけの後継者として生まれました。

18歳の時、ビクターは学校を退学し、ドイツのドレスデンに行き、カメラ業界と光学機器の製造について学びました。

若きヴィクターは人生のこの時期、世界中を歩き回り、カメラ業界で見習いの期間を過ごしました。最初はドイツとフランス、次にアメリカで、カメラとフィルムの工場、現像ラボ、そしてカメラショップで働いていました。

スウェーデンのラップランドでGraflexカメラを使うヴィクター 20/21歳

ハッセルブラッドファミリーのつながりにより、若きヴィクターはファミリーのビジネスパートナーであるジョージ・イーストマンとの接触に成功しました。世界で最も先見の明があり成功している起業家であり、コダック社の創設者であるイーストマンは、ロールフィルムを完成させ、写真界で最も重要な人物の一人でした。 1926年、イーストマンは、ニューヨーク州ロチェスターにあるコダックの本社で、彼の弟子としてヴィクターを迎えました。

スウェーデンに戻った後、1934年にヴィクターはエルナ・ナースホルストと出会い結婚しました。

鳥への情熱

ヨーロッパに戻り、ヴィクターは希少な鳥を求めて冒険し、写真に収めました。幼い頃から、彼はバードウォッチングと鳥の写真を撮ることに熱心でした。1935年に、彼はFlyttfågelstråk(渡り鳥の道)と呼ばれる本を出版しました。 それは当時としては希少な、飛んでいる鳥の様々な写真が収められていました。

VICTOR FOTO

1937年に、ヴィクター・ハッセルブラッドは自身のフォトショップ、正確にはVictor Fotoという名前の店をヨーテボリの中心に開きました。 その店はフォトラボを備え、家族から独立した彼のビジネスのファーストステップでした。

ヴィクター初のカメラ

ヴィクターが最初に製造したカメラは1941年のHK-7で、会社の元々の名前であるRoss ABで製造されました。スウェーデン政府は、ヴィクターに接触し、回収された空撮カメラを複製してスウェーデン空軍を支援するようにという任務を与えました。

1943年、ヴィクターはF.W. Hasselblad&Coを買収し、オーナー兼CEOになりました。 この取引にはHasselblad Fotografiska AB社も含まれていました。

ヴィクターの人生において、彼はハッセルブラッドの最初の民生用カメラ1600F、そして1000F、500C、500ELを含む、歴史上最も象徴的なカメラのいくつかを生み出しました。ハッセルブラッドのアプローチは広くコピーされ模倣されてきましたが、決して同じクオリティには至りませんでした。ハッセルブラッドの名前は、カメラの信頼性と画質を表す同義語となりました。

1978年、ヴィクター・ハッセルブラッドは72歳で亡くなりました。彼の意志により、エルナ・アンド・ヴィクター・ハッセルブラッド財団に財産の大部分を残しました。財団の目的は、自然科学と写真における研究と学術教育を促進することです。毎年授与されるハッセルブラッド財団国際写真賞は、世界で最も権威のある写真賞の1つであり、ヴィクターと彼が愛した写真の世界にぴったりの記念といえます。

すべての始まり

ハッセルブラッドの始まりは空撮カメラHK-7でした。

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